「未来のミライ」ひいては現在の
俺は好きだが、評価は分かれる作品だなと思った。
ネットでの評価はむしろ非の方に定まっているだろうなとも感じた。
細田守は酷く冷めてるようで妙なところに幻想を持つ監督だ。
物語はミライちゃんという新しい家族を迎えるところから始まるが、通常の物語。つまり、新しい命を家族全員で歓迎する温かいホームドラマとは趣向が異なる。
ミライに対して主人公である少年クンはおもちゃの名前を付けようとするし、父親はそれを餌にイクメンとして褒められることに夢中で、母親は長男のときにほったらかしにされた復讐を微かに目論んでいる。もちろんその妹も曲者で、未来のミライもなにを言うかと思えば「自分の婚期が遅れるから雛人形を片付けろ」という手前勝手な理由で現れれて自分よりはるか年下の兄に向かって命令をする。
新しく生まれた命に対して無償の愛を向ける無辜の共同体、といった鼻白む家族の描き方はしない。家族といえど他人の集合で、すべての人間がそれぞれの欲望に基づいて視線は一致しない。
しかし、全てが遮断されてるわけではない。
エゴをむき出しにしてしまう人間が過去と未来を含めた時間軸を持つ共同体を形成していることや、雛人形を片付ける時などに自動的に発生するチームワークのようなものに細田守は人間に対する希望を置いている。
その幻想的な家族をアクアリウムの結構で描写したのが本作である。
家族ゲームの食事をコインの裏に構えた表の物語、というのが未来のミライに対する俺の感想。
幻想の在り処がはっきりしていることでかえって確からしい現実が確保される。そうした映画は巷の声価はどうであれ、俺にとっては価値のある映画だ。
その点で未来のミライは良い映画で、更に言えば監督の幻想の在り処は俺にとっては妙にしっくり来る位置にあって好きなのだが、そうした作品の評価はどうしたって分かれるよな、などと思う。
ところで、細田守は海外で評価されているということだがその評価が輸入されてる感覚がない。
いや、評価されてるのは確かに十分評価されてるはずだが、目の届く範囲では「なんであんなもの」と言いたげな評価が多く、先生様と仰ぐような評価は感じられない。
十数年前の北野武はフランスでの評価が輸入されて映画監督として認知されたと聞いたが、海外での評価が無効化されるような状況が日本では産まれつつあるのかもしれない。徐々に、小さくではあるが。
それが良いことか悪いことかはわからない。
と、いうのも一人一人が確固として価値基準を持ってるようには見えず、アマゾンレビュー的内輪の感想が巡り巡って残響してるようにしか見えない事があるからだ。
つまり宮崎駿はロリコンの変態で細田守は家族が見に来る映画にケモナー趣味を突っ込む異常性欲者だ、というオタクの飲み会でなら面白く聞けて話せて流せる与太話を真面目な顔をして書き込む層が海外などなんぼのもんじゃい、とやってるように見える。
ただ「アメリカのかっこいいと思うものがかっこよくてフランスがおしゃれだといったものがおしゃれなんだ」を真面目に言う奴よりは遥かにマシだよなーとも思う。そんなやつ正直見たことねえけど。